自己紹介
2024年度 MDRT成績資格会員(通算 5回)※1
COT(Cout of the Table)3回
・TLC(生命保険協会認定FP)
・外貨建保険・変額保険販売資格(生命保険協会認定)
・証券外務員二種(日本証券業協会)
・宅地建物取引士
・相続診断士
・住宅ローンアドバイザー(全日本不動産協会認定)
・ベーシックプロスピーカー(一般財団法人プロスピーカー協会認定)
・KCA〈2級キッズコーチングアドバイザー〉(日本キッズコーチング協会認定)
・子育て診断士
・選択理論心理学リアリティーセラピー上級プラクティカム受講終了
福岡県糸島市に3人兄弟の末っ子として誕生。学生時代は野球に打ち込み励む。
高校、大学と受験の失敗を繰り返し、怪我のため野球チームも退団。
自分への自信を失う。
19歳で小学校からの幼なじみである妻との間に、長女を授かり突如”父親”となる。
経済的に厳しく、800円の子供服を買えず、情けなさと悔しさでいっぱいに。
両親の支えで大学を卒業。不動産会社へと就職し、家族3人で上京。
年間355日、朝7時から深夜1時過ぎの帰宅という過酷な労働環境で、がむしゃらに働く。
管理職に抜擢される。更なる営業マンとしての成長を求め、25歳で完全成果報酬型の外資系生命保険に転職。
入社後3ヶ月、義兄の死を経験。
義兄の担当営業マンからの連絡はなく、売りっぱなしの対応を経験する。
絶対にこうはなりたくないと感じ、自分は何があろうともお客様の幸せが続くよう責任を持った保険を届けると決意する。
1年目以降毎年全国表彰を受ける営業マンに成長。
2020年独立。独立後も継続してMDRT認定を受ける。
現在、年300人以上の面談を行い「家族を紹介したい営業マン」として活動の場を広げている。3児の父として子育てにも奮闘中。
※1MDRTとは
1927年に発足したMillion Dollar Round Table (MDRT)は、卓越した生命保険・金融プロフェッショナルの組織です。世界中の生命保険と金融サービス専門家72,000名以上が所属する独立したグローバルな組織として、500社、70カ国で会員が活躍しています。
世界中の生命保険・金融サービス専門職の毎年トップクラスのメンバーで構成され、そのメンバーは相互研鑽と社会貢献を活動の柱とし、ホール・パーソン(バランスのとれた人格を志向すること)を目指し、努力しています。またMDRT会員は卓越した商品知識をもち、厳しい倫理基準を満たし、優れた顧客サービスを提供しています。また、生命保険と金融サービス業界の最高水準として世界中で認知されています。
FPなかざとの自分史
幼少期〜小学生
糸島で育った幼少期
1989年、福岡市中央区六本松出身。3人兄姉の末っ子として生まれた。兄とは5歳、姉とは3歳年が離れている。僕が3歳の時に父が糸島に家を建て、それから記憶の中ではずっと糸島に生まれて育ってきた感覚だ。
幼少期はあまり記憶がなく、 とにかく元気で活発な子というか、ひたすら友達と遊んでいた気がする。
いつでもどこでもよく寝る子で、幼稚園の送迎時に、母の漕ぐ自転車の後ろでもよく寝て、現代のようなチャイルドシートではない時代だったから「落ちそうで怖かった」と昔よく言われていた。 よく寝ることは、今も全然変わっていない。(仕事中はもちろんシャキッとしてますよ^^)
野球少年の始まり
兄姉とはずっと仲良しで、2人の後についてまわり遊ぶ子だった。兄が野球をしていた影響もあり、僕も野球を早く始めたかったが、母親はバスケットボールをさせたかったらしく、いつか僕が心変わりしないかと期待して、今じゃないと言われ続け、小学校3年生になってやっと野球を始めることができた。
それからは、ひたすら野球に打ち込んでいた。小学校5年生で初めてレギュラーになってからも、6年生までずっと野球をしていた。ポジションはセカンドやショート、内野で、機敏に動き、かつ頭を使うタイプのポジションを守らせてもらっていた。ホームランを打つとか遠くまで投げるといったパワー系ではなかったが、盗塁やバントなどの細かいプレーが得意だった。
中学生〜高校生
怪我による挫折
中学生になり、公式の野球チームに入った。まだまだスパルタ的な指導が許されていた時代で、殴る、蹴るなども普通に行われていた。中学2年生の時に肩を痛めたが、肩が痛くても休める雰囲気ではなく、練習を休むことなく無理に投げ続けた。
結局、肩の状態が悪化してしまい、最終的には「打つな・投げるな・走るな・筋トレするな」の状態にまでなり、ボール渡しとボール拾いしかできなくなった。 一つ上の学年が卒団し、自分たちがメインの学年になるタイミングでそんな状態になってしまった。最初はボール渡しをしてたものの、九州大会等の大きな大会に出場していくチームメイトにボールを渡して、みんなが上手くなっていく姿が耐えらず僕は逃げるように野球を辞めた。
高校受験失敗
野球を辞めても末っ子気質で上手く立ち回りながら友達とは容量よく付き合い、先生にも気に入られて過ごしていた。野球を辞めたタイミングでちょうど中学校3年生になった。さあ受験だ!という雰囲気になり、ほどほど頑張って勉強はした。兄が行った高校以上に行かないと兄に負けたような気がして、同じ公立高校を受験したが失敗した。
大学受験も失敗
結局、近くの私立の学校に通うことになった。別に行きたかった学校でもないし、今更野球をしてもなぁと、言い訳しながら夢中になれることを見つけられずに張り合いのない期間を過ごした。部活も何もせずに高校3年生になった。一応進学校ではあったため、大学受験を視野に勉強に取り組んだ。
当時僕の中では常に兄が基準だった。尊敬しているし、すごく仲がいいからこそ兄には負けたくない、勝ちたいという気持ちがあり、当時九州大学を受験したが高校受験に続き失敗した。
大学時代
夢中になれることを探して過ごす
受験当時、小学校から幼なじみだった今の妻と付き合っていた。彼女は先に福岡市内の専門学校に合格しており、離れたくない気持ちもあり、結果センター利用で受かっていた福岡大学に行くことにした。
今考えると完全に言い訳になってしまうが、当時僕の中では、「こんなもんじゃない」「もっと自分が打ち込めるものを見つけれたら僕はもっとできるのになぁ」と野球の辞め方も含め、自分が打ち込んだものが中途半端に終わり、本気を出せていなかったから大学受験も失敗したと自分に言い聞かせていた。
そう思わないと当時の僕は自分を保っていられなかった。男子のプライドもあって、自分の力足らずを認められなかった。自分はどこかで何か変わらなきゃいけないって思いながら、やる気スイッチを探してるような学生生活を過ごした。
彼女の妊娠
友人関係には恵まれ、何かに困ることはなく、何か打ち込めるもの一生懸命になれるものが欲しいと思いながら過ごしていた僕に転機が訪れる。
大学2年生に上がる春休みに、彼女のお腹の中に赤ちゃん(今の長女)を授かっていることが発覚した。
当時学生なりにも、彼女とはいつか結婚することを決めていたし、彼女と一緒に家庭を持つと思ってたから二人で産む決心をした。
ただ、お互いまだ19歳の未成年で学生だったこともあり、彼女の実家に謝罪に行った時には、彼女の父親から3回殴られて帰らされた。当時彼女の母親とはよく会ったりもしていたが、「本当にあなたには残念だわ」と言われてしまった。
後日僕の両親と一緒に改めてお詫びに行った時にも、「どういうふうに育てたらこういう人間が育つんだ」と両親に言われてしまった。それに対して横で土下座をしている両親を見た時に、本当に自分自身がやってしまったことの無責任さ、ことの大きさっていうことを痛感した。大事にしたい人も大切にできなくて、何も守る力もない自分に悔しさを感じた。
それでもお腹の中には赤ちゃんがいるし、もう勝手にしろ!ぐらいな感じで結婚は許してもらったというか、押し通した感じで結婚を進めた。
彼女がずっと大切にしている価値観
彼女には小さい時からずっと父から言われていた価値観があった。それは、
「世界の誰もが違うと言っても自分の心が正しいと思ったら正しいと言える人間でありなさい。世界の誰もが手を差し伸べなくても困っている人がいたら手を差し伸べられる優しい人間でありなさい。」
という言葉だった。付き合っていた頃から、「私はそういう人間になりたい」と言っていた彼女のことを純粋にすごいと思っていたし、僕もそうでありたいと思った。
入籍する前にもう一度義理の父と話す機会をもらった際、「彼女(今の奥さん)は結婚して中里に苗字が変わりますが、お父さんが昔から言っていたこの言葉を僕が必ず誰よりも再現し、子供たちに繋いで行きます。」と伝えた時、
「貴よろしくな」と泣きながら義理の父は結婚を許してくれた。
学生と結婚生活の両立
結婚は許してもらえたものの、お互いまだ学生。親の支えもあり、お互い大学を卒業することを最初の目標に結婚生活が始まった。
当時は僕の実家に住み、実母に長女を見てもらいながら、お互い学校に通った。学校から帰ると僕はアルバイトへ行き、彼女は看護学校の宿題をしながら子育てをした。
アルバイトは塾の先生をしていたが、やはり金銭的に豊かではないし、何をするにしても制限が多かった。子供にお菓子を買ってあげるにしても、ズボンを買ってあげるにしても必ず値札を見るところからスタートする。
値札を見るということもお金がある状態でいくらだろうと確認するのと、いつもお金を気にしている状態で確認する状態は全然違う。いつも値段を気にして生活しなきゃいけない状況がすごく不自由で情けなくて悔しくて、絶対に稼ぎたいと強く思った。
今までの学生生活にしても野球にしても、義理の父に言われた言葉にしても、認められたいという気持ちが強くて、早く稼げる仕事に就きたい、早く裕福になって家族を幸せにしたいと思った。
周りからの「あ中里も終わったな」「あいつできちゃったらしいよ」みたいに言われてた声とかそういったものから全部解放されたくて、早く社会に出て活躍したいという葛藤を持ちながら過ごした大学2,3,4年生だった。
不動産業界へ就職
年収1000万を現実させるために
就職に関して、大学の先生から九州の大手に推薦の話も出たが、その企業の給与水準を調べた時に、正確には覚えていないが30歳で550〜600万、40歳で800万という数字だった。
正直、入社さえすればある程度平均的に年収が上がっていくという中で成長していっては、僕のこの感じている(自分が全て悪いんだけども笑)僕が抱えているこのフラストレーションを解消するには全く追いつかないと思った。
僕は30歳の時に1000万円稼ぐ人間になりたい。
なんとなく年収1000万円はすごい人だっていうふうに当時思っていたのもあった。それを別に50歳になって稼いでも何人もいそうだ。なら30歳になる時に1000万円稼げるようになりたい。
稼げる仕事はなんだろう?成果で見てくれるところはどこだ?と就職先を探していた時「世界で最も夢を叶える会社を作る。世界でもっと人を大切にする会社を作る。」という目標を掲げているベンチャー企業の不動産屋さんを見つけた。
ちろん給与水準が良かったっていうこともあったが、やはり子供に誇れる仕事はしたかった。調べる中で、人を大切にするとか夢を叶えるっていうことを掲げて一生懸命頑張ってるベンチャー企業の先輩達が輝いて見えた。
ここで成果を出せたなら僕はきっと子供に誇れる人間になれると思ったのもあって、この企業に就職した。
ブラックを超えた漆黒企業
働き始めてからは、それはもう一生懸命働いた。1年目から家族3人で上京し、それから2年半、東京に住んでる間は年間355日働いた。盆・正月の休みを入れて休日は年間10日ぐらい。お部屋探しの営業の仕事だったが、週1日か2日は、店舗に泊まっていた。僕の職場の引き出しの一番下には常に靴下、ワイシャツ、シャンプーとワックスがあり、いつでも泊まれる状態だった。
朝7時半には家を出て、帰宅は夜中の1時過ぎという働き方を毎日のようにしていた。
仕事が早く終わり、23時半とか家に着いたら、何をしていいかわからなくて 「あ、テレビ見れるんだ!」とか「やばい、会社で一番早く帰ってきちゃったなぁ」と思うぐらいその状態が当たり前になっていた。
ブラック企業とか言葉あるけど、そんなの僕に言わせたら全然可愛くて、当時の労務形態をもし、やらされるような仕事があったら漆黒企業だと思う。
最年少で役職に就く
業務時間は一生懸命働き、ありがたいことに当時最年少で店舗を任せてもらえるような役職をもらえた。働き始めて1年2ヶ月で 3ヶ月連続、営業ランキング全社のトップに立った。
福岡にもようやくその店舗もでき、妻のお腹の中に二人目がいたタイミングということもあり、福岡エリアのマネージャーを任せてもらう形で福岡に帰ってきた。
それから1年半の間は福岡の店舗マネージャーとして働いた。リクルートや育成、営業も含めてプレイングマネージャーという形で働いていたが、マネージャーになって半年間で同じ職場のメンバーから二人うつ病の人を出してしまった。
言葉にして言われたかどうかは忘れてしまったが、二人とも「中里さんが言ってることはわかるけど、正しさについていけません」という形で、心の病気にしてしまった。
まだ当時24歳から25歳に上がるタイミングで東京では仕事の成果を出したものの、人の育成をするとかマネージメントをするほどまだ僕の器は育っておらず、自分のやり方で自分だけが仕事の成果を出すことができても、他の人の考えをちゃんと聞いたり受け入れてあげたりその人に合った言葉で伝えてあげたりということができなかった。
マネージャーという役職にはなっているものの、メンバーを率いるほどの力はまだ自分についてないと痛感している最中、会社自体の経営が傾き、本来もらえるはずのお給料がもらえないということが多発し始めた。
転職を考える
会社の状況を踏まえ、これからの家族構成を考えた時、3人目の子供が欲しいタイミングでもあったため、転職を考え始めた。
それでも、30代で1000万円稼ぎたいという夢はずっとあった。
福岡で30歳で1000万円稼げる仕事ってなんだろうと探している時、当時先輩の紹介で外資系保険会社のトップセールスの人と縁があった。その人がすごく稼いでるのを噂で知っていたが、実際に会って率直に素敵な人だなあと感じた。
不動産会社で3年8ヶ月ぐらい働いた中で、とにかく時間に物言わせて一生懸命働いたっていう自負はあった。もし業界から一度離れても半年もあれば絶対その会社のトップセールスに戻れるという過信があった。
もし転職に失敗しても、戻れる業界はある。だからもう1回、営業マンとしてどれぐらい力をつけられるのかチャレンジしたいと思って外資系の保険会社に転職することを決めた。
保険嫌いが保険屋さんに
保険が嫌いだった理由
今でこそ保険の仕事をさせてもらっているが、当時の僕は保険が嫌いだった。妻と子供2人いて、義理の父に必ず幸せな家族作りますと泣きながら宣言したくせに、保険には入っていなかった。
僕は絶対に運がいいタイプだし、容量よく生きてきたから病気にもならないし、責任感があるから僕は死なない。だから保険はいらないという考えを持っていた。(世の中の奥さん達が聞いたらゾッとするかもしれない。)
でも外資系の保険会社に入社した当時、保険自体を嫌いなわけではないことに気づいた。それまで僕に保険のことを話そうとしてきた人たちのことをあまり好きになれなかったのだ。だからまともに保険の話を聞いたことすらなかった。
保険って何のことかも分かっていない僕が保険屋さんになり、入社研修を受けた後に人生で初めて自分の保険の加入手続きをした。
保険の勉強をする中で、保険に関してたくさん勘違いしていることに気づいた。保険のことをしっかり伝えてくれる人がいたら、多くの人はきちんと理解して保険はいいものだと思えるのになあと。
誰より保険営業マン嫌いだった僕だからこそ、なんとなく保険が嫌いな人の気持ちを誰より分かるんじゃないかなという気持ちがあった。そこは信念を持ってやらないといけないと思いながら保険屋さんの活動をスタートした。
最初に届けた死亡保険の受取人は、実の姉
現在まで約8年、保険業界にいるが、僕たちの仕事において一番重要なことは、死亡保険金を届けることだと思う。
死亡保険金を届けるというお客さんの家族にとっては一番重大な出来事が起きた時、悲しみに暮れているご家族のもとに行ってお金を届けるということがある意味保険屋さんにしかできない重大なお仕事である。
保険業界は成果報酬であり、歩合制の強い職種だからか大体2年間に7割ぐらいの人が辞める業界。また、長くて10年ぐらい続けた人がいたとして、その人が子育て世代の方に死亡保険金を届けるっていうのが一組か二組いたら多い方だと言われている。
それが、僕がこの業界について 3ヶ月目の時に死亡保険金を届けることになった。その時の受け取り人が僕の姉だった。
家族は仲良しなので僕が保険屋さんになり、姉家族の保険を見直すことになった。元々保険に入っていたが、保障内容を見てみると姉家族が思っているような内容じゃなかったり、今後も金額が上がっていくこともあり、僕の勧めた保険への加入手続きをした。
その5日後の朝、姉から旦那さんが死んでしまったっていう号泣の電話がかかってきた。
当時僕は、入院した時の入院給付金すら届けたことがないまだ入社3ヶ月。そんな時に死亡給付金、それも自分の身内に届けるという経験をした。
僕は学生時代から燃えるものだったり打ち込めるものとか、何か一つ人に誇れるような成果っていうことを求め続け、そして稼ぎたい認められたいで、就いてしまったこの保険業界は稼ぐだけ営業するだけじゃない重大な使命だったり、お客さんに本当の意味で寄り添わなければいけない仕事であることに初めて気づいた。
保険担当者のあり方
姉家族に死亡保険金を届けたという経験を通して本当の意味で保険の担当者の在り方を僕は感じることができた。この経験があったことで、ある意味間違えることなく今もこの業界で仕事ができていると思う。
今日の明日に何千万円というお金を間違いなく家族に残してあげられるというのは保険以外にはない。でも多くの人はもし私が死んだら家族大丈夫かなのような悲しいことは考えないし、考えたくもないことだから、ついつい僕がしてたように後回し、先延ばしにしてしまっている。
でも考えるべき時は、時間をとってしっかり考える。またそれを正しく教えてくれる担当者がいるという重要性を姉の経験を通して実感した。
というのも、姉家族の保険の手続きをして5日後のことだったため、まだ当時加入していた保険を辞めることなく、僕の保険の手続きをした経緯があり、前の保険の担当者もいた。
結局その死亡したという大きな重大なことが起きた時に、本当の意味で姉家族を守れるような保険になってなく、ましてはその担当者は姉に寄り添うような関わり方が何一つなかった。人によってはお葬式にも来なかった。
その時に保険の担当者にとって大切なのは、本当に家族にとって大切で重大なことが起きた時に、しっかりと担当者としてその業界にいて(辞めることなく保険業界にいて)そして寄り添って守っていることなのではないかと感じたし、学んだ。
このことは、今までも、これからも大切にしていきたい担当者としての在り方だ。
世界基準のタイトル受賞
そんな思いで仕事を続け、ありがたいことに入社した外資系の保険会社では、1年目新人だけのルーキーコンベンション(新人奨励コンテスト)の社長杯で1年目から表彰され、それ以降毎年辞めるまで、全国水準の表彰式に該当することができた。
また、入社して3年目は保険業界で、世界70カ国以上の国々で共通の世界基準であるMDRTという世界タイトルを達成。
MDRTタイトルに該当できるのは、全世界の保険営業でトップ1%ぐらいと言われており、日本だったらトップ層の3%とか4%の人だけ。それを当時、僕が所属している支社で歴代最年少で該当した。
なにか社会に出て認められたいとか、すごいって言われるような結果を出したいと思っていた僕にとって、保険業界に就く人であれば誰もが一度は夢見るMDRTの世界タイトルを手にできたことは、自信になった。
姉の経験を踏まえて思いを持って仕事をしてきたことで、お客さんが新しいお客さんに紹介をしてくださって、世界基準にまでお客さんが僕を押し上げてくれたことが何よりも嬉しかった。
毎年1月1日にゼロからスタートする基準のため、常にトップ基準にいないと来年はMDRTと言えないというタイトルをそれ以後は毎年続けて達成させてもらっている。特に直近の2年においてはCOTというMDRTの世界基準の3倍の成績基準で該当している。
僕は、成果を出しているということは、お客さんにとって非常に重要なことだと思う。
なぜなら離職率の多い業界だからこそ、成果を出せない営業マンは長く続けることができない。このMDRT、COTのタイトルを達成しているということは、それだけ多くのお客さんに選んでいただけている証であり、お客さんにとっても安心できる判断材料になるからだ。
独立
もっとお客さんのためになりたい
外資系の保険会社について4年8ヶ月在籍し、世界タイトルを取って、保険業界のトップで活躍している人たちと情報交換するようになってくると、徐々に自分の会社で提供している商品が必ずしもナンバーワンの商品ではないことに気づき始めた。
例えば医療保険やガン保険、もしくは貯蓄制で増やす商品だったり、それぞれの商品ごとに強みを持っている保険会社が他にもあり、多数の保険会社を組み合わせながら自由にお客さんに商品を提案できるような働き方があることを知った。
それが代理店っていう働き方で、各保険会社の商品を良いとこ取りしながらお客さんに商品提案する形だ。すると、お客さんに一社だけでなく、たくさんの商品の中から情報提供して契約手続きをサポートし、またその後に何かあった時の対応まで担当できる。
保険業界で活躍するまで育ててくれた会社に対する感謝の思いや、働いている仲間に対する思いとかもあり、1年ぐらい一生懸命悩んだ。
2020年コロナが流行して、保険業界の人だけじゃなく多くの業界の人が今までとは違う働き方が求められるようになった時、自分自身もお客さんのためにもっと貢献できる働き方に進んでいこうと勇気を持って2020年8月に独立を決意した。
人生100年時代をサポートするファイナンシャルプランナー
保険のように何かがあったら家族を守ることができる保証機能ももちろん大切だが、これからの人生100年時代においては老後のことも視野に入れて、資産運用や資産形成(最近でいうiDeCoやNISA)のようにお金の増やし方や守り方にもアドバイスできるように保険代理店と証券会社の代理店を扱うファイナンシャルプランナーとして独立した。
ファイナンシャルプランナー(略してFP)というと、すごい人と思われる方もいるかもしれないが、 FPはただの資格だ。例えば、英検や漢検、数検などと同じで、試験に受かりさえすれば誰でもファイナンシャルプランナーを名乗ることができる。
だけど、ただ単にちょっとお金に詳しい・お金に関する知識を持っているのと、その知識を持って、お客さんやその家族に最適な形でサポートできる能力というのははるかに違う差がある。
料理でも和食・中華・洋食があるように、また医療でも診療科が分かれているように、住宅に強いファイナンシャルプランナーもいれば運用に強いFP、保険に強いFPがたくさんいる。
僕が今まで就いてきた仕事を振り返ると、住宅業界の営業から始まり、保険業界を経て今独立して運用までサポートを行うFPになっている。
ファイナンシャルプランナーの中でも、実務経験者として住宅業界・保険業界に携わってきた人はかなり少ないと思う。知識・経験が豊富なことで、誰よりも根拠を持ってお客さんに合った提案をできる自信がある。ここはぜひ安心していただきたい。
これからの活動・目標
現在では、保険業界の中でもちょっと認められて、ラジオ局やテレビ局とコラボでセミナーをさせてもらう機会も増え、ありがたいことに参加した方からご依頼いただいたり、お客さんから新しいお客さんへと紹介してもらったりと活躍の場が日々広がっている。
僕は姉の経験もあり、お客さんには生涯僕が担当者でいることを約束している。
僕とアシスタント2人を含め、より多くのお客さんをフォローできる環境を整えているところだ。しかし、新規のお客さんをずっと増やし続けることが難しくなるため、今後は有料面談という形で、より家族にいい状態を作っていきたい、未来に対して安心を得たいという方々と有意義な面談時間を過ごしていきたい。
また同時に、家族との時間も大切にしたい。僕の人生で、仕事は70歳まではやるつもり(もちろん保険業界で)だが、子供達と一緒にワイワイ楽しめるのは、これから10年ぐらいの期間だとも思う。
家族と過ごす時間という意味では大切な期間でもあるため、仕事の時間と家族の時間メリハリをつけながら、ビジネスのサクセスとプライベートのハピネスを両方追求していけるような人生を歩んでいきたい。